アメリカの水田から日本を想う

 

津野幸人(鳥取大学名誉教授)

 

1.看板に偽りあり

 アーカンソウ州といえば、クリントン前アメリカ大統領か長期にわたって知事を勤めていたので知られているが、もう一つの顔は全米一のコメの生産地である。州都リトルロックから東南50キロ、大水田地帯を貫く道路の脇に大きな立て看板かある。曰く、「日本はコメを買おうとしないのに、なせ日本製品を買うのか」。これが建てられてから7年たつた今(977月)、およそ現実とは違う看板をだれも気に止めないで走っている。

 看板に程近い農家の一室で、私はこの原稿を書いている。この家の主人クリス・イズベル氏は、日本品種コシヒカリ米の生産グループの中心人物であるので、たびたび我が国の丁∨で紹介されたこともある。私が最初にこの州を訪れたのは92年の夏であつた。農民の多くはクリントン知事の大統領実現を願うワッペンを胸に付けていた。

 その頃、あの金丸 信さんが自民党議員団の集会で、「今や、アメリカあっての日本であって、その逆はありえない」と、わが国の米市場の開放を熱っぽく訴えていたのを思い出す。この時すでに、イズベル農場では日本への輸出を前提として、コシヒカリの種籾を着々と増やしていたのだ。もちろん、クリントン大統領の政治力を期待した上での行動である。

 コシヒカリは、日本の稲作面積のほほ三割を占める−大路柄品種である。特徴は、食味は極上だが病気に弱いうえに、肥料の施し方を誤るとじきに倒れてしまう。こんなデリケートな品種をアメリカの大規模稲作で作りこなせるはずがない、と官僚技術者は楽天的にうそぶいていた。か、昨年暮れからアーカンソウ産コシヒカリが、「お米大使」のフランド名で日本各地のファミリーマートで発売され、たちまち売り切れてしまった。アメリカ市場ではこの米に最高の値かつき、十キログラムが2千円内外の価格だ。

 

 

2.コメ戦争に休戦はない

 それにしても、どうなったのであろうか。あれほど賛否両論で喧しかった我が国の米自給論も、米国主導のウルガイ・ラウンドで、国際米市場へ向けての段階的開放を受諾するや否や、すつかり鳴りをひそめてしまった。食糧自給は国家の存亡に係わる重要課題であって、棚上げにして済ませる問題ではない。一方では、市場開放が決まつた以上、日米の稲作農民の間では戦いが始まつたのである。この戦いには休戦はありえない。どちらかが倒れるまで、血みどろの死闘か続くのだ。すでに我が国は、小麦、大豆では完敗を喫した。このままだと、コメ戦争も同じ轍を踏むだろう。

 コメ戦争に対する我か農政の支援施策はといえば、20ヘクタール程度の規模の稲作農家の育成である。冗談ではない。6百ヘクタールという中規模のイズベル稲作農場では、水田一筆が平均30ヘクタールだ。しかも、一筆内での高低差は5センチ以内で、水のかけ引きは思いのままである。種蒔き、肥料・農薬散布は、すべて軽飛行機でやってしまう。電話一本で注文できる散布作業の料金は、1ヘクタール当たり千円程度だ。肥料、農薬の使用量は日本の半分以下である。

 現在のところ、アーカンソウ州の米の生産額は3百万トン程度(日本は年産額約1千万トン)で、生産主力はカリフォルニア品種であるが、日本市場が有利とみれば総力を挙げて日本品種を栽培するだろう。水資源に恵まれたこの州では、農家がその気にさえなればコメ生産額はまだまだ伸びる余地がある。

 世界地図を見て頂きたい。アーカンソウ州の中心を北緯35度線が貫き、さらに、この線は京都市付近を通る。緯度が同じであるということは、一日の日の長さが同じであることを意味する。稲作期間の気温は西日本と同じだ。加えて、日射量か多いので日本品種は、安定した多収穫か期待できる。どう考えても、我が国稲作にとつては恐るへき強敵だ。

 

 

3.同じ戦略では必ず負けるコメ戦争

 私は、大学を定年退職をしたのをきっかけとして、イズベル農場へ技術アドヴァイザーとして住み込んだ。イネ栽培の助言をしながら、アメリカ稲作の弱点を探ろうというのが目的である。住み込みは今年で二回日で、地域社会の事情も分かりかけてきた。しかしながら、鮮明に見えてきたのはアメリカ側の弱点よりも、日本の弱点とその農業の特殊性である。

 大学に奉職していたためか、日本の弱点として最も痛切に感じるのは、我が国の大学卒業生の実力低下である。現職時代には、二十カ国余りの発展途上国を農村調査のために訪問して、各国の大学卒業生とお付き合いをした。この経験に照らしてみても、我が国のそれは最低クラスで、専門知識が身についていない。高校生時代に養成した学力が、大学四年間でほとんと活力を失つてしまうのはどうしたことか。

最近、講義中に私語の多いことが指摘されているが、授業中の私語は明らかに傍迷惑な妨害行為である。これを咎め立てしない教師の無気力さにも責任があると思う。(私は、私語は絶対許さなかつた。)また、企業による大学生の青田買いが、落ち着いて勉強する気風を損なっている点も見逃せない。もっと掘り下げれば、社会上層部の職業倫理と道義の低下が若者の正義感を蝕み、無気力な気風を醸していると思われるのである。

日本農業の特殊性を一言でいえば、官僚への盲目的な従属と、それがもたらす合理的な思考の放棄である。自給自足を原則としてきた、およそ1ヘクタール程度の稲作主体の農業で、高度資本主義社会での生計を維持することは何処の国でも不可能だ。自家用に作物を作つて、それを食べて、余ったら売る。これが古来からの日本農業の性格であり、今もその基本はたいして変わってはいない。この現実を直視しないで、農外収入と補助金で支えられている農業に過大の収入を期待する。一円でも多くの補助金をと願う心根が現実を直視する勇気を奪い、補助金を握る行政官僚の横暴と無責任を許しているのだ。

日本農業が生き残るためには、アメリカ農業と同じ戦略で戦ってはいけない。山がちの地形は大規模農地の造成を阻み、大型農業を運営する人材に欠けるという現実を見つめよう。若者は農業外で働き、年金老人が生き甲斐として農業を営む。そして、最高品質で安全な農産物を生産し、まず我が家でたっぷりと食べ、余りを知人に売る。このような小さな農業が地域社会を守るためには必要なのである。農業の大規模化は、必ずアメリカ同様に農村地域の住民の減少をもたらす。

農業の原点は、家と地域を守るところにある。これはアメリカでも同じである。高度に機械化された現在のアメリカ農業は、開拓時代から見れば各段に規模が大きくなつている。隣の農場を買い取るという形で規模拡大を実現してきたのだ。その結果はといえば、都市の肥大と地域人口の激減である。行けども行けども、ただ農作物だけで満たされた緑の空

間は、人恋しさを切ない程にそそる。

 

 

4.アメリカ社会の倫理を支える農業

 ある日の新聞に、州都リツルロックにおけるギャング組織の縄張りが色刷りで載っていた。聞けば麻薬密売、強盗、暴行など地区によっては日常的に起きているそうだ。農村部に住んでいると、想像だに出来ない話である。我々の付き合う人々は、平日はよく働き、日曜日には午前中と夕刻の二度バプチスト派の教会に行つて、説教師から聖書の講話を聞き、賛美歌を歌い、そして神に敬虔な祈りを捧げる。ここに集う人はみんな禁酒、禁煙であるが、堅苦しい雰囲気はなくきわめて社交的である。ただし、我が家では晩酌を欠かしたことのない私にとっては、当地の酒抜きの食事はさすがに淋しく物足りない。

 アメリカには聖書地帯(バイブル・ベルト)といわれる地域がある。南那・中西部の根本主義(ファンダメンタリズム)の信者の多い州を指し、アーカンソウ州はそのど真ん中に位置する。なお、根本主義とは、第一次大戦後に起こったプロテスタントの一派であつて、聖書の創造説を堅く信じ、生物の進化説を排除している。聖書に忠実な生活を送る努力を怠らないで、質素な生活と農業に対する誇りを堅持している。このような人々によって、この国の農業が支えられているとみても間違いはない。また、これが同時に退廃的な都市文明に対して、解毒剤の役割を果たしているのである。かつて日本も、農村が同様の役割を担っていたのではなかったか。

 ここでの生活の必需品は、小型トラックと銃である。四輪駆動のトラックでなければ雨上かりの田舎道は通れない。16歳から運転免許証が交付されるのだが、その歳まで待って運転したのでは親の手伝いはもちろん、隣に行くことすらも出来ない。子供たちの運転は大変に慎重で、極めてマナーがよろしい。無免許運転時代に培った車のマナーは、大人になつて一段と洗練されてくるようである。優雅な道の譲り合いは、お互いに気持のよいもので心が和む。

 水田の彼方には森か見えるが、ここは例外なく沼地であって、これが貯水池の機能を持つ。また、冬期の猟場として農家に多量の鳥・獣肉を供給している。夏場は蛇の住みかで、銃がなくてはとても立ち入れない。野外で働く人は銃の名手でもある。空中に投げた土くれをライフルで見事に撃ち砕く。この腕前でなければ、水田の畦に潜む毒蛇の頭を打ち飛ばすことは出来ないのである。

 だれしも少年時代から車も銃も扱い慣れているから、これで事故を起こすことはまずない。少年たちの車や銃の扱いについて、法律がどうのこうのと言い立てる保安官はいないようだ。基本的には、法律は道義の最低線にしか過ぎないという認識に立っている。農村社会においては、バイブルに基づく良心の研磨と家庭での躾が懇切に子供に及んでいる。こうして育った人々の質朴さと道義が、アメリカ社会を力強く支えているのである。

 

 

5.むすび

 ひるがえって日本の農相を顧みたとき、都市文明に対抗するだけの文化をいまの農村が保有しているであろうか。残念ながら都会同様に、大衆社会の大波にどっぷりと浸っている。資本主義か巨大化するにつれて、無気力で享楽的な大衆社会か出現し、これを支配する官僚に権力か集中することは、1930年代においてすでに指摘されていた。官僚をして忠実な公僕たらしめるのが民主主義の基本であるが、我が国の現実は余りにもひどい。

 資本主義の中枢部を占める金融機関が、自らのモラルの規制を官僚に求めるようになつた日本の現状は、なんとしても嘆かわしい。このままだと官僚ファシズムの世となりかねない。都市文明は自らの浄化機能を持たないがために、農業を軽視した都市国家は歴史上短命であつた。古来から農業は食物とともに、モラルを生産して国家を支えてきたのだ。以上は、バイブル・ベルトにある水田での憂国の想いである。