ブラジルの広大な潜在地、セラード開発

                                                                           伊東正一

 

1.あの感動をもう一度 ――膨大な食糧生産潜在地のセラード

ブラジルのセラード開発は日本政府がODA開発援助として1980年代初頭からスタートさせたものである。首都ブラジリア一帯からアマゾン川にかけて、2ha余りの広大な大地である。マットソルという紅い土に覆われ、「何も育たない不毛の地」と言われるほどのやせた土地である。強酸性の土壌で、高さ3mほどの樹木がまばらに生えている。草もまばら。そんな感じの土地である。しかし、開発され、そこに鶏糞や石灰分が大量に施されるとこの土地は見違えるほどに変わる。すでに開発されている土地はまだわずかに5千万ha足らず。あと8千万haが開発可能という。このセラード地域で10億人分の食料をまかなうことができる、という計算も成り立つ。

コメは陸稲が開墾直後に植え付けられる。背丈の高い稲は開墾直後の土地にはもってこいである。開墾直後の土地にはまだ木々の破片が多く散在しており、機械収穫の際に背丈の低い作物は気の破片が収穫機に入ってしまい故障の原因となる。稲が酸性土壌に強いというのも利点の一つ。こうして1-2年間の陸稲生産の後にダイズや綿、コーンなど、種々の作物が作付けされる。特にダイズはセラード地域の基幹作物で、この地域での生産拡大のために今やブラジルはアメリカに次ぐ世界第2位のダイズ生産国となった。

セラードの食料生産基地としての潜在性はこれまでにも多く書かれている。それでもあえて書きたいほどに感動するものがそこにはある。ここを見ると、また一つ、世界の食料危機の到来が遠のくのを感じずにはいられない。世界の消費者を不安から解放してくれる“母なる大地”がここにも存在する。

あれは今から17-8年前であった。私はこのセラード地帯を見学する機会に恵まれた。8月で、ちょうど乾期の真っ盛りであった。バスで何時間もかけて旅した。舗装はなく、バスの走ったあとは炎々とほこりが舞い、道路沿いの木々もかわいそうなほどにほこりをかぶっている。その中で黄色の花を付けているイッペイの木が本当にきれいであった。あの当時、セラード開発はまだはじまったばかり。入植したばかりの農家を訪れると、スイカやダイズを生産していた。

こんな乾燥した所に水などあるのだろうか、私はそう感じたものだった。入植の農家は100mくらい離れたところに流れる本当に小さな小川から大きな発動機を使ってダダダダダ・・・とけたたましいエンジンの音と共に水を汲み上げていた。こんな小川が近くにある農家はいいが、こんな川がたくさんあるのだろうか?そんなことを私は感じていた。

ところがブラジル北部のあの広大なセラード台地を飛行機で飛んだとき、小さな小川が至る所に散在しているのが見えた。その小川に沿って大きな樹木が茂っている。この乾期の時期にもかかわらず、小川の両サイドは濃い緑だった。こんなに川が多いのなら大丈夫。これなら農地の開発は期待できる。当時、経験の少なかった私にもすぐに判断できた。

それから17年後の200012月、私はあの時の感動を再び胸にした。道路はかなり整備され、穀倉地帯と呼んでもおかしくないほどの作物が広がる。ダイズの単収は1ha当たり2.5トンを越え、ブラジル全体の平均を上回るだけでなく、強敵アメリカのそれをも上回る勢いである。コーヒーの生産も増え、近年では綿の生産が増加している。息吹を上げる食料基地のパイオニア、「ブラジル」を目の当たりに感じる。

 

2.セラードで見た老農夫の鋭い経営感覚

 彼は70歳。初対面の時は80歳かと思った。足が少し不自由で、歩くときは見るからにつらそうである。それでも私たちに歩調を合わせ、農場の説明をしてくれる。腎臓の手術もしたとか。白人の顔つきだが、農夫らしく顔や胸には日焼けの跡が見える。唇はこのセラードの気候で乾燥し、ひび割れには血痕が見えた。

 JICAのセラード開発援助で1980年に入植。当時、小さかった子ども達も大きく成長し、今では息子二人と一緒に農業を営む。「私は経理を担当するだけ。息子たちが農作業をやる」。老農夫の声はかすれながらも、これまで営んできたフロンティア農業に誇りが感じられた。ダイズ、コーン、フェジョン豆、そうして、その地では困難とされるコーヒーも生産している。数年前は農地も新たに買った。

 「成功してきた農家はみんな農場に住んでいる」。彼は自分からそのように発言した。これまでのセラード開発の苦労は言い尽くせない。借金に追われ、離農していった農家も少なくない。この老農夫が所属している組合では5年前、借金返済の可能性のない農家に離農を促した。その際に組合に払っていた出資金により払えるだけの借金を払い、あとは組合が責任を持つという方法であった。「組合員の中には組合の精神を持っていない農家もあった」。彼はぽつりと言った。組合員は半減した。それでも組合を立ち直らせるにはそれしかない、と言う背水の陣を敷いてのことだった。現在の組合員数は100人を割り込んでいる。

 その残った組合員で膨大な借金をこれから返していこうとしている。「農家の借金は国の政策に起因するところが大きい」と彼は言う。1995年の物価安定政策(ヘアル・プラン)と輸入自由化はブラジルの農家には確かに不当なものであった。あれから借金がふくらんでいったのも事実である。「そのような借金は政府が肩代わりするのが当然だ」と、その老農夫は言うのだが、同時に「借金は返していかなければならない」と、言い切る。農家の中にはいずれは徳政令が出て、農家の借金を帳消しにしてくれるのではないか、との期待のもとに借金を返済しない農家が多い。そのような農家とは一線を画する姿勢をこの老農夫は貫いている。

 「世界では人口の増加率より食料生産の増加率の方が高い。だから価格は安くなる」とまた彼は強調した。この感覚は鋭い。長年の経験の中でこの老農夫は世界の食料需給のメカニズムを肌で感じているのだろうか?これは当たり前の話のようだが、一般の農家にはそのような意識はない。市場価格はいつか上がる、食糧危機はいつか来る、そのような淡い期待を抱いている農家が一般的だ。そんな期待の中では厳しい現実に対峙する綿密な農業戦略など創れるはずがない。彼はそのような農業経営の危機感を常に抱いているのであろう。

彼の農地を見た。ダイズとコーンは非耕起栽培でほぼ全面的に行っている。それも80年代半ばから始めたそうである。センターピボットの灌漑設備ではスイートコーンを生産していた。青々と成長しており、収穫が間近。コーヒーも肉牛も小規模ではあるが手がけていた。彼の全耕地面積は900haに及ぶ。彼の信念である「農場に住む」ことで、生産性の向上と共に孫たちに囲まれた豊かな生活を営んでいる。

そうして彼は「この基盤を作ってくれたのがJICAのセラード開発援助であった」と、ためらうこともなく言った。「農家の借金の問題はプロデセルが原因ではない、国の政策が問題なのだ」と。この開発援助のメリットとデメリットは何か、との質問に彼はメリットの点を多く上げた。そうして、一息ついた彼にあえてデメリットはと再び質問すると「デメリットは何もない」と答え、改めて日本政府に対する感謝の言葉を述べるだけだった。

余生、幾ばくかはわからない。それでも彼の説明からは新鮮で鋭い経営感覚が伝わってくる。彼の後を継ぐ息子たちも農場に住み、生産拡大に余念がない。こうした農民が住む限りブラジルのセラード地域は今後も世界の食糧基地として発展していくことであろう。