ロシアに愛を
鳥取大学農学部 伊東正一
本当はこのようなエッセイを書くのは時期が悪いような気がする。チェチェンの問題でロシアに対する世界の風当たりが良くないから。でも、そのような政治的問題はあるとして、ロシアの人たちの状況を私が見たままにここに記してみたい。そのような情報こそロシアを理解するに当たり少なくともマイナスではなくプラスになるのではないか。
今ロシアは経済の混乱で依然として生活は苦しい状況である。それでも一般大衆の人たちは力強く、そして陽気に生きている。私は文部省の海外科研により1998年9月にウラジオストックを、及び11月にモスクワと黒海の西海岸にあるクバン地方を、そして1999年9月には3週間にわたりそれらの地域とハバロフスクを訪問する機会を得た。
ロシアを初めて訪問する前はロシアという国はどんなところか、ロシア人はどんな人たちか、ただただ不安であった。恐ろしい気持ちさえあった。訪れる前にウラジオストックにある日本領事館に電話して事情を聞いた。その電話はロシアの電話ではなく衛生電話であった。ロシアの電話回線はいろいろとトラブルがあるらしい。そんな点からもロシアは物騒な気がした。そうして領事館の日本人職員曰く「ウラジオストックでは治安が悪く日本人と見たら身ぐるみ剥がされても不思議ではありません!」と、これまた狂気の沙汰であった。このような身の不安を抱えての現地調査であった。が、…
ウラジオストックの国際空港に着いたとき税関でいろいろと質問された。国際空港と言ってもビルの中は簡素としたもので何とも田舎臭い小さな空港である。大都会・ウラジオストックの空港というイメージではない。が、税関を通ったあと、ここに前もってメールで連絡を取っていたロシア科学アカデミーの研究者が笑顔で私を迎えてくれた。かたことの日本語と英語で私に挨拶してくれた。これで私は急に安心した気持ちになった。用意された車に乗り研究所へ向かった。同アカデミーのメール・アドレスを探し当てたのはホームページからであった。だから、私にとって迎えてくれた人たちは誰からの紹介もない、会ったこともない人たちである。ただメールのやりとりだけで連絡を取り合って、私の訪問に際しこうして待っていてくれることに、私は感動した。インターネットにより国を越えた連絡の取り方がこれほどまでに容易になり、外国の人たちが本当に身近に感じられるようになった。
天下のロシア科学アカデミーと想像していたが研究所を訪れて驚いた。ここ土壌研究所にあるパソコンがとても古い。そのほかの研究設備も日本の感覚からは30年昔のもののようにみえる。パソコンはあるにはあるが5インチのフロッピーのもので、それでもあまり活用されているようではなかった。ただ、ここのズーラブレフ所長の部屋にはWindowsの入った近代的なパソコンがある。私はそれでもって所長とメールのやりとりをしていたわけである。
1998年9月に訪れたとき、稲作現場に出かけるときの車の中で聞いたことだが、公務員には数ヶ月前から給料さえ出ていなかった。いずれ払ってもらえることを期待しながらのただ働きという状況。同行してくれた人たちがそれぞれに話しているのは給料のことばかり。それはそれは不安な表情であった。現在の食料事情もその後余り改善されてはいない。こうした中、ダーチャと呼ばれる家庭菜園で何とか芋や野菜を中心とした食料を自給しながら急場をしのいでいる。
稲作地帯に到着して、現地研究所の職員に案内されて水田や乾燥・調整施設などあちこちを回った。稲の品種は古いものが多く、施設の機械なども半世紀近くも使っているのではないかと思われるくらい旧式なものばかり。ブルドーザーやコンバインは大型のものが確かにある。しかし、故障しているのもまた沢山ある。修理するための資金がないという。こんなことで、ロシアの穀物生産はこの10年間で半分から3分の1程度に減少している。
それでも現地の研究者の心意気には驚いた。中年女性の育種家は私たちを水田に案内すると自ら長い長靴を履いて水田の中にさっさと入っていった。これまでに私は世界数十ヶ国を回っているが、女性の研究者が自ら水田の中にまで入り説明してくれたのはこれがまだ2回目であった。これまではほとんどが男性の研究家であった。男性でも水田の中まで入ることは珍しい。給料のもらえない毎日でどのような暮らしをしているのか、と想像に及ばなかったが、これを見てロシア人女性の仕事に対する熱意が感じられた。
ロシアを飛行機で横断してみた
この横断は感動的である。日中の間にこれができて非常によかった。雲が出て見えない地域もあったが、それでも地上の様子がかなり分かった。半砂漠的なところ、肥沃なところ、気温の違い、そうしてこの長い飛行時間。途中、2カ所で着陸したが、極東のハバロフスクを出発してから延々13時間後に西の果て、クラスノダールに到着した。一ヶ国を横断するのにこのような長い時間を費やしたのは初めてである。それもそのはず、ロシアは世界で最大の面積を有する国で、アメリカや中国の2倍ある。時間帯も10の区域に分かれており、我々がクラスノダールに午後5時半に着いたのだが、それはハバロフスクではすでに日が変わって翌日の午前1時半であった。
しかし、考えてみると、西のモスクワで一日の仕事が始まろうとしているときには東の果ての地域ではすでに一日の仕事が終わって家に帰ろうとしているとき、ということになる。大変な国だ、ロシアは。
老兵の気迫を感じる
全露稲作研究所のカリトノフ所長は私たちに請求された料金を反故(ほご)にしてしまった。せっかく同研究所の国際部部長のニーナとコワリヨフ副所長とが作成し、私たちも4,000ルーブルを一度は支払ったものを、どういう訳かカリトノフ所長はそれを私たちに戻した。昨年も請求はされなかった。今年は所長自らそのように指揮した。老所長の将来に向ける気迫を感じた。私たちと共同研究をする姿勢、それを部下に見せしめる態度。一時的な金でなく、将来にわたって続く関係を築こうとする姿勢、そういうものを感じた。
遂にカリトノフ所長と文書を交わすことになった。お互いの研究を支援するために、できうる限りの協力をしていきましょうという内容のものだ。お金に関することは敢えて書いていない。所長からは2年先にこちらの研究員を日本に派遣したいのでよろしく頼む、とのことだった。二つ返事で了解した。カリトノフ所長としては私からいろいろと金銭的なものは含まないことを強調したこともあって、合意文書はお金のことを含まないようなお互いの研究協力を謳うものとなった。
1999年9月20日
クバン大学で講義をした。学生は経済学部の国際経済学専攻の学生。テーマは「日本の食糧需給:食生活の変化と貿易の拡大」。言葉は日本語で私が話し通訳がロシア語に訳すのだろうと思っていたら、英語でお願いしますと、学部長から頼まれたので、英語で話した。彼らにどれくらい英会話が分かるか、私はちょっと疑問であった。しかし、驚いたことに50人くらいいた半分の学生が、私に真剣に耳を傾けているようだった。ちょっとジョークを飛ばしたところ反応する。最後の方で質問を受けると、どんどん英語で質問してくる。恐れ入った。日本の大学ではとてもこのようには行かないだろう。実は韓国の忠南大学でも同じ様な経験をした。英語がうまいのである。ロシアの若者は目覚めたら世界と交流するのが早い、と思う。言葉にしてもロシア語と英語は日本語から見ると近い。日本の若者よ、後れをとってはいけない。
クラスノダールからロストフへのドライブで
警察の取り締まりが多いのはここでも同じ。運転手にとって、探知機は必須の道具である。私たちの運転手もこれで何度か救われている。
道ばたで農作物を売っている。時々グループをなして打っている。この季節ではリンゴ、トマト、スイカ、メロン、ブドウ、なし、ピーマン、等。メロンは1個が1ルーブルであった。いろいろ買ったり見たりしていると、スイカを売っている農民が話しかけてきた。スイカを食べろいうのである。親しく話しかけてくるので、ロシア人である私たちの通訳も私たちに対したベル様に勧めてきた。それではと、言葉に甘えて食べた。おいしかった。その農民は40歳くらいだった。物理の専門で大学を卒業したそうである、が、職がなく、今仕方なく農業をしているという。自分の両親は片方がアルメニア人で、周りから人種差別を受けたこともある。しかし、私はそれを苦に思うことはせず、ひたすら努力して生きてきた。今、ロシアの経済が混乱して自分の希望する職がないが、景気が回復するまで農業をしながら我慢する、といろいろと話してきた。私達は次々と差し出してくれるスイカを食べながら彼の話を聞いていた。
最後に、私はいくら払えばいいか、と尋ねた。彼はお金はいらない、と言う。自分がこうして日本人と話ができただけでうれしいと言った。何か日本の土産はないか、とポケットを探ったが何もない。彼の気持ちを胸に秘めてそこを去った。
1999年9月21日・毎日が感動の日々
きょうは全露ソルガム及び他穀物研究所を訪れた。実は昨夜8時ころ到着したが、3人の方々が待っていてくれた。全員が50代半ば以降の年輩の方々。副所長、育種担当、それに技術担当の専門家たち。いずれも博士号を持つ人たちだ。早速夕食に招かれた。その研究所の建物の中にある食堂で、隣の店からビールとウォッカを買ってくるのが分かった。さっそく、ウォッカで乾杯となった。私も相手に会わせて飲み干した。料理もおいしかった。皆さん、とても陽気である。ジョークも飛ばす。通訳のシャロフさんがテキパキと訳してくれて、お互いの意志がかなり通じ合った。彼らは日本人と話すのは初めてだと言った。
小さなグラスで3杯か4杯飲んだだろうか。10時半くらいになっていた。ようやくその席を終えて、車に向かった。そうしたらちょうどアラビシェフ所長が車で帰ってきた。「One minute!」という英語で私たちを彼の部屋に誘った。私は「OK」と答えてみんなと一緒に彼の部屋に向かった。そこでは彼は私たちに対し歓迎の挨拶をし始めた。全員で8人いた。新たに食後のワインもついだ。1分間のはずが20分くらいそこにいただろうか。それからホテルに向かった。
ロシア空軍のゲストハウスに泊まる
ホテルが何と、ロシア空軍のゲストハウスである。この街にほかにホテルがあるのかないのかは知らない。とにかくそこは空軍将校の住宅区域になっているそうだ。車ではいるときも私たちを案内した研究所の副所長さんがかなり厳重な質問を受けていた。中に入ってみると、その住宅街派くらいので余りよく分からなかったが、ホテルの部屋はこれまで2週間ロシアに滞在した中では最もよかった。お湯もでた。料金が安い。4人で430ルーブル。私の部屋はシングル用のベッド、きれいなデスク、テレビ、ラジオ、大きないす2つ、小さないすが2つ、それにコーヒーメーカー、電話が2つ、シャワーなどが付いている。サウナもある。よく聞いてみると、これはドイツが統一したときにドイツが置きみやげとして建築した施設だという。そういえば部屋の材料がハイカラである。
今朝は7時過ぎに起きた。8時前くらいであった、子どもたちが学校に行く姿が見えた。ベランダに出てみるとリュックサックを背負ってグループで登校していた。小学校1年生くらいから中学校くらいの子どもたちであった。楽しそうにがやがやと話しながら歩いていた。みんなヨーロッパ人のようだ。とてもかわいい。周りにはアパートの建物がいくつも建っている。将校たちが住んでいるアパートであろう。子どもたちの写真を撮りたかったが疑われるとまずいと思って止めた。それでも最後に2−3枚撮った。
今朝は8時半にアラビチェフ所長と面会する予定でホテルを出たが、その前に今夜どこに泊まるかを検討した。結果はこのホテルガ気に入ったので今夜もここに泊まることとした。その旨、迎えに来た副所長に話すと、ちょっと首を傾げた。一泊しか予定していなかった、と言う。とにかく所長に相談してみることとなった。研究所について、所長に会うと、「大丈夫、問題ない」と、今夜再びあのゲストハウスに泊まることを了解してくれた。私たちは安心して会議を続けたが、実際に午後3時くらいに基地に戻ってくると、正門のところでガードにかなり長く質問された。ゲストハウスに着いてからもその館長と面会して許可を取らなければならなかった。やはり大変なようだ、このように軍隊のゲストハウスに泊まることは。しかも、僅か50km離れたロストフでテロによる爆破事件が発生した直後だけに検問は厳重である。
それにしても、いかに研究所からの依頼状があったからとはいえ、軍隊のゲストハウスに軍とは全く関係のない外国人を泊めるということはどういうことか。軍隊の施設を一般人にもオープンしているのだろうか?10年前は想像だにできなかったことであろう。ロシアも変わったものだ。
ロシア人はジョークが好き
非常に愉快な人たちである。ジョークもよく飛ばす。昼食の時、研究所の3人に子どもの数を聞いた。たまたま3人とも子どもの数は二人ずつだ、と言う。そこで私はジョークのつもりで、「ロシア人は子どもは二人と決まっているのですか?」と尋ねた。そうしたら年輩の副所長が「いや、さっきのは公式の数ですよ」(みんな隠し子が別にいるのですよ)と答えて大笑いとなった。日本伝統の和紙で作った飾り物を所長に送った。私たちは誇らしげに「これは300年間は持つんですよ」と説明した。そうしたところ所長は「いや、私はそんなに長くは生きられない」と返してきた。「ペレストロイカ以降は皆さんのジョークの数は増えましたか、減りましたか?」と尋ねた。「増えました」との返答が帰ってきた。やはりそれだけ自由になったのだな、と思ったが、それはなぜですか、と敢えて再び尋ねた。すぐに答が戻ってきた「そうでなきゃ、やってられない」。経済の混乱、給料の不払い、そして政治の混乱…、こんな中で生き抜いている庶民のちまたでは文句と同時にジョークの数も増えたのだろう。
ロシアの人たちは何だかあっけらかんとしている。中国人とはかなり違う。調査でも中国では中央政府の紹介状がなければ各地方の研究所はあうことさえためらうが、ロシアではそのようなものはなくても会ってくれる。そうして持っている物はどんなデータでもどんどん出してくれる。宴会は中国人に勝るとも劣らないくらいやる。文化は洋風で高いレベルの物を持っている。オーケストラやバレーなど、また、このコザック地方では踊りやコーラスがとてもうまい。このような物を総合してみると、日本人の興味をそそる物が多い。共同研究もロシア人とはかなりうまくいくのではないだろうか。特にこのコザック地方はおもしろい。彼らもこの地方独特の人柄がある、と言う。
自由を取り戻した旧ソヴィエトの調査
昨夜の夕食の時のヴィクター・ベズトラウニ副場長と話していたとき、感動的な言葉を聞いた。以前、外国から研究者が訪れたときには一緒に会合を持つごとに共産党員が同席して私達を「監視」していた。だから、外国人を前にしてあまり自由に物が言えなかった。「今回、皆さんをお迎えするに当たって、当方の研究者たちとどの様に対応すべきか語り合った。そのとき、何でも自由にこちらの情報を提供し、また質問もする、そのような形でお迎えしよう」と、言う結論に至ったそうである。そのおかげで、会議の時には彼らが持っている情報を自由に聞けたような気がする。もちろん時間の制限はあるが彼らも一生懸命に説明してくれたと思う。いろいろと研究内容について議論していると、彼らの間でも意見が異なることがある。6人のスタッフと話をしていたときに意見が分かれた。そのとき一人があと一人に対していった。「それはあなた個人の見解ですよね」と。そこまで個人の意見が言えるようになったと言うことであろう。
ベズトラウニ副場長は言った。経済の混乱で十分な研究ができていない。われわれは研究のレベルを旧ソヴィエト時代のレベルまで回復させなければならない。外国の資金を懇願するのではなく、外国の研究者たちと情報交換や交流をすることで自分たちのレベルをあげていきたい。経営が回復したらわれわれも日本を訪れて日本の優れた技術を学びたい。
中国の調査ではいろいろと気を使う。研究者と話しているときも何となく奥歯に物が挟まったようないい方をして、資料を見せることにとてもおっくうがる。中国の研究者はこのような情報を外国人に見せるとあとで処罰されるのではないかというような感じである。実際に、中国を調査するときは農業・食料関係では農業部の招待状がなければいろんな機関を訪れることができない。訪れても農業部の紹介状のことを聞かれ、「ない」と言うと面会を断られることがある。また、各研究機関も農業部からの紹介状を撮るようにと、私たちに忠告してくる。こんな状況だから研究者と会っても独自のデータを見せてくれることは少ない。口で説明するだけのことが多い。さらには、たとえ中国の研究者と親しくなっていても、外国人を家に泊めるようなことはできない。許可をとればいいことにはなっているが中国人もそれをすることさえためらう。
そのような状況からすればロシアはより多くの自由を感じさせてくれる。民族的にもおおらかである。ジョークが好きな人種である。言葉の点では苦労するが、これも時間の問題であろう。ロシア語と英語は日本語からすればかなり似ている。ロシア人が必死で英語を勉強すればすぐに使えるようになるであろう。ロシアやウクライナを中心とする旧ソヴィエトの地域の調査はこれからやりやすくなると思う。折しも、キルギスタンでは日本人が誘拐され、また、ロシアでも次々にテロ事件が起こると言う事態であるが、その状態が旧ソヴィエトのすべてではない。
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